芥川龍之介「羅生門」解釈

 

 「羅生門」は191511月の『帝国文学』に「柳川隆之介」の名義で発表された。のちに彼の第一創作集、芥川竜之介名義で出した最初の本、『羅生門』に表題作として取られている。「大川の水」など耽美派の影響の色濃い柳川隆之介時代から、芥川龍之介として本名で作品を発表するようになる、その転換期にあたる作品である。

 それゆえ、このページでは、まず柳川隆之介時代の文藝について整理し、その上でそこからの転機と見なされる「羅生門」の解読に続けていくこととしたい。

 

「大川の水」再説

 振り返れば、柳川隆之介名義で発表された「大川の水」は、耽美派文学の色濃い影響の下に成立したものであった。

中学卒業後、19109月に、芥川は第一高等学校の第一部=文科乙類に入学している。同級生には菊池寛や久米正雄と言った将来の作家仲間がいたが、一高当時には深い交わりを持っていなかった。ちなみに当時の学校長は新渡戸稲造で、芥川は新渡戸をモデルとしてのちに「手巾」という小説を書いている。

当時は中学時代のように回覧雑誌などももはや行っておらず、小説などの創作活動に手を付けていなかったようだが、読書欲は旺盛だったようで、特に書簡を見てみると、永井荷風や木下杢太郎、吉井勇や上田敏といった名前が並んでおり、当時の芥川が耽美派の作家たちの強い影響下にあったことを窺い知ることが出来る。

そのような一高時代において、妻の文さんによれば、芥川は作家になるという将来の夢を定めたと言う。そのきっかけは、その文さんの回想によれば、風に吹かれた木の葉が一枚一枚、それぞれに揺れて動いているのを見て、創造の世界の素晴らしさ、美しさを深く感じたためだった。そのようなきっかけを得るためには、世界を素晴らしいと感じ、また美しいと感じるためには、それを準備する変化が先立っていたのではないかということを、「大川の水」をめぐって先に考えてみた。

「大川の水」が発表された1914(大正3)年ころに書かれた短歌については、戦後まもなく木俣修氏によって北原白秋『桐の花』所収の歌の露骨な模倣であることが指摘されていた。当時用いていた柳川隆之介というペンネームにしても、白秋を意識したものだというのは既に定説になっている。

そんな白秋の模倣は一高在学中の1912年に書かれたとされる「大川の水」にも認められるものであった。注目したのは、少年のおののきやすい心への関心である。白秋が詩集『おもひで』の序文で説いた「螽斯の薄い四肢のやうに新しい発見の前に喜び顫へ」る感じ易い心は、「大川の水」において「新な驚異の眸」を見はる「黒蜻蛉の羽のやうな、をのゝき易い少年の心」として反復されていた。

この自然・現実の些細な物事にも敏感に感応して、歓びふるえる心なくして、木の葉のふるえに創造の世界の素晴らしさ、美しさを発見することはできないのではないか。芥川が最晩年においても「感じ易い心」を重視していることをも鑑みるに、その「黒蜻蛉の羽のやうな」繊細な感受性は、一高時代の白秋受容によって強く意識され、彼が作家を夢見るきっかけを与えたのではないかと思われる。

 その上で更に考えたいのは、そのような「少年の心」を重視する態度が成立する更なる背景である。単に白秋の影響というだけで、芥川の内的な問題にまるでかかわらないのだとすれば、それは空疎な、表面的な模倣に止まるであろう。しかしこの自然・現実の些細な物事にも敏感に感応して、世界の素晴らしさ、美しさを発見するという経緯に至ることには、それを必然とする内的な文脈が備わっている。

そのことは、一高時代における永井荷風の影響についての検討と「大川の水」の読解によって知られる。当時の芥川は荷風の「すみだ川」を読んで評価しており、また同時期の書簡等見ると、その評価は主人公長吉の抱えている淋しさへの共感から来たものと推測できる。そこにあるのは、恐らく、青年期の精神的な危機として一般的なものであろうか。数年後、1916年に芥川は友人宛の書簡で「庸俗哂う可き「隅田川」の荷風」などと、その平凡さを揶揄する言葉を残してもいる。数年たって突き放したくなるのも含めて、一般的な反応かもしれない。

 それはそれとして、「大川の水」の読解を通して見ようとしたのは、その青春の危機というのか、厭世主義の克服が、どのようなかたちで執り行われたか、という点である。そこにあったのは、死を見つめることを通して生への郷愁を抱くといった、ホフマンスタールの作品にみられるような方法であった。

「大川の水」では、そのように死を意識することから反転して、なつかしいものとして捉えられる生のありようとして、おののきやすい、感じ易い心をもって眼差すことで、現実を価値あるものとして捉えるという、現実をそのような鋭敏な感受性において肯定するという態度が示されていると考えた。

 一高に入学したころの芥川龍之介は、孤独や寂しさから死を思うような厭世主義に深く落ち込んでいた。永井荷風の文学に引かれたものそのような理由からだろう。その克服は、荷風の「海洋の旅」や、「大川の水」で言及のある詩「体験」や「青年と死と」の元ネタと見える「痴人と死と」などの作者であるホフマンスタールの文学、後は更に上田敏経由のウォルター・ペイターの享楽主義なども関わっていると思われるのだが、「死」を意識することで逆に「生」を際立たせるという方法を用いてなされていた。

そこで価値あるものとされる生は、北原白秋の影響下に意識された、感じ易い心によって現実の美しさを見出すというものだった。まとめると、一高から大学入学頃までの芥川は、彼の抱えこんだ厭世主義を、現実の美しさを見出すという方法によって克服しようとした、克服したというわけではなく、この時期の芥川は「美」の発見によって厭世観を飼いならそうとしていた。そのような芥川青年の内的必然性をもって、彼は耽美派に接近し、模倣したのだろう。芥川という作家の研究として、彼の二十歳前後の精神史は、そのように捉えることができる。

 

柳川隆之介の文学

 ここで更に、「大川の水」以外の柳川隆之介名義の作品に目を向けておこう。

 1913(大正2)年の7月、芥川龍之介は第一高等学校を卒業している。卒業時の成績は第一文科26名中の2番で、1番は彼の親友、井川恭であった。井川は、一高時代は芥川と同じく文科だったが、大学では法科に進みたいと考え、京都帝国大学に進学する。当時の東京帝国大学が文科から法科への転科を認めていなかったためである。井川も、もともとは文学を研究するつもりで一高の英文科に入学したのだが、芥川と交流する中で才能の限界を感じ、法科大学に入学することに決めたと、そんなふうに回想している。

 そして同じ1913(大正2)年の9月、芥川は、東京帝国大学文科大学文学科英吉利文学専修に入学します。当時の英文専修の主任教授はジョン・ローレンスという人物でしたが、この人は文学研究者ではなく語学の研究者で、文学寄りの芥川などからの評価は辛く、後に「講義の詰まらないことは、当時定評があった」などと書いている。あるいは講義が詰まらなかったからこそ、秀才芥川龍之介は、「学科を軽蔑する美風」に染まって、学者ではなく作家になったのかも知れない。

逆に彼が興味を示していたのは、波多野精一の『希臘哲学史』、大塚保治の『欧州近世文芸史』、松浦一の『文学概論』などであったことが、当時の書簡等から窺える。芥川の希臘哲学への理解や、ボードレールなどヨーロッパ文学への理解を考える上では、波多野や大塚の著作あるいは講義録が参考になるだろう。松浦一の『文学概論』については、1915年の11月に『文学の本質』と題して書籍化しており、芥川はそれについて柳川隆之介名義で読売新聞で書評を書いている。

 大学入学以降の芥川について語る上で、まずなんといっても外すことのできないのは、彼が同人雑誌『新思潮』に参加していることである。この雑誌『新思潮』は、文学史上第三次『新思潮』と呼ばれるものだ。第一次は小山内薫という劇作家によって演劇中心の文芸誌として1907(明治40)年に創刊され、第二次からは同人制を取って、小山内のほか、谷崎潤一郎や和辻哲郎、後藤末雄、小泉鉄らが加わって1910(明治43)年9月に創刊され、翌年の3月まで続いていた。

 芥川の参加した第三次『新思潮』は、1914(大正3)年2月に創刊された。創刊に際して中心となったメンバーは、芥川の一つ上の学年であった山宮允と、彼と同期だったが落第して芥川らと同じ学年になっていた山本有三の二人だった。第三次『新思潮』は、彼等二人が話し合って、発刊のための資金繰りなども行って、メンバーを募ったものという。同人には他に、豊島与志雄、久米正雄、土屋文明、成瀬正一、松岡譲、佐野文夫、菊池寛がおり、計十名だった。

この同人の多くは、芥川とは異なって、一高時代に『第一高等学校校友会雑誌』などに作品を発表しており、第三次『新思潮』は、一高時代の文学活動から連続するものだったと見なされている。先に述べた通り、一高時代の芥川は彼らとは違って文学活動を行っていなかったのだが、大学入学以降芥川は、山宮允に誘われて勉強会に参加するなどのつながりがあり、それが第三次『新思潮』同人への参加呼びかけに繋がったのではないか、と考えられる。第三次『新思潮』は、19142月の創刊から、同年の9月まで全八冊が刊行されている。

 ここで第三次『新思潮』時代の作品を、『新思潮』以外に掲載したものと合わせて、その時期の作品をリスト化しておこう。これはいずれも「柳川隆之介」の名義で発表されたものである。

 

 「バルタザアル(アナトオル・フランス)」(『新思潮』19142、翻訳、のち第五創作集『影燈籠』19201、など)

 「大川の水」(『心の花』19144、随筆)

 「「ケルトの薄明」より(イエーツ)」(『新思潮』19144、翻訳)

 「未来創刊号」(『新思潮』19144、書評)

 「老年」(『新思潮』19145、小説)

 「紫天鵞絨」(『心の花』19145、短歌)

 「桐(To Signorina Y.Y.)」(『帝国文学』19145、短歌)

 「春の心臓――W.B.Yeats――」(『新思潮』19146、翻訳、のち『影燈籠』など)

 「薔薇」(『心の花』19147、短歌)

 「シング紹介」(『新思潮』19148、評論)

 「青年と死と(戯曲習作)」(『新思潮』19149戯曲)

 

 こうしてみると、第三次『新思潮』時代の芥川は、柳川隆之介名義で、『心の花』に北原白秋や、他にやはり耽美派の作家である吉井勇などの影響色濃い短歌を発表しつつ、翻訳活動にも力を入れていたことがわかる。

とりわけ、ウィリアム・バトラー・イエーツというアイルランドの作家のものを翻訳していることに特徴があろう。はじめにアナトール・フランスも翻訳しているが、これはフランス語からではなくて英語からの重訳という。芥川はこの当時、アイルランド文学研究会という集まりに参加していて、148月の評論「シング紹介」も、ジョン・ミリントン・シングというアイルランドの作家を紹介するものだった。このあたりのことは、鈴木暁世が『越境する想像力――日本近代文学とアイルランド――』(20142、大阪大学出版会)の中で詳細に論じている。

 また、これら第三次『新思潮』時代の作品は、翻訳を除いて、生前刊行された芥川名義の作品集に収められていない。この時期、柳川隆之介名義で書いた小説、短歌、評論、随筆、いずれも採録していないのである。このことは、これらの作品群が作者自身にとって、まだまだ未熟なものと見なされていた、ということを意味していようか。

既に見た通り、短歌や随筆については、それらは芥川の精神史なり作家としての形成過程を知る上では重要であると考えられるけれど、作品としては、他人の模倣の目立つ習作とも言うべきものであった。

 この時期の、小説、戯曲についても、少しばかり触れておこう。「老年」は芥川が最初に発表した小説である。舞台は大川=隅田川に面した浅草橋場のある料理屋で、主人公はその料理屋の隠居で「房さん」という小柄な禿げ頭の老人。その料理屋で一中節の発表会のあった日の夜の話となっている。「房さん」は「一生を放蕩と遊芸とに費やした」人物とされ、10代で茶屋酒を、遊郭で酒を飲むことを覚え、20代では遊女と心中沙汰を起こしたとされる。親から受け継いだ財産は蕩尽してしまって一度は三度の食事も困るほどだったが、幸いにも還暦を過ぎたいまは楽隠居におさまっており、近頃では芝居にも芸事にも関心を失っているように見える。

それが一中節を聞いている内にその音に合わせて体をゆすり始める。それは周りの人々にも「昔の夢を今に見返している」ように思われ、「一中節の唄と絃とは、幾年となくこの世にすみふるして、すいもあまいも、かみ分けた心の底にも、時ならない情の波を立てさせずには置かないのであろう」とその内面が読み解かれている。

 作品のクライマックスは、房さんが座を立って暫く、出席者の二人がはばかりのために廊下に出て、帰りがけ房さんのいる部屋の前にくる場面である。なにがしか声がするので耳を澄ましてみると、房さんが女をなだめているようだった。「何をすねてるんだってことよ。そう泣いてばかりいちゃあ、仕様ねえわさ。」「自体、お前と云うものがあるのに、外へ女をこしらえてすむ訳のものじゃあねえ。」などと、なまめかしいことを言っているので、年を取ったって隅にはおけないななどといいながら、その部屋をのぞき込んでみる。すると、部屋の中には女の姿はなく、房さんは丸まった一匹の白猫にむかって、そんななまめいた言葉を繰り返しているのだった。

 先行研究における作品評価で代表的なものを、いくつか簡単に紹介しておこう。例えば清水康次は「江戸情緒と寂寥感とが漂う、情緒的な作品といえる」としつつ、「老年」の文章が、永井荷風の『冷笑』から影響を受けたものする先行研究を踏まえて、「『老年』は、一つ一つの小道具の背後に江戸情緒が見える作品ではある。情感のある作品かもしれない。しかし、過去の文化についての理解は未熟であり、現在が明確に位置付けられていない。荷風の影響を抜け出ていない習作と考えてよいのではないだろうか」としている(清水康次「「老年」――-過去への叙情と過去への位置づけ」『解釈と鑑賞』199911)。

また吉田精一は、「恐らく龍之介はすぐ前の『新思潮』に於ける、谷崎潤一郎の「刺青」などを目標に置き、此の作の構想を練ったと思われるが、彼には積極的な美の讃美と生の意欲があって、来らんとする新らしい志向をさしまねいた力強さがあった。然るに、これには文章にも主題にも、あきらめに生きる消極的な弱々しさがある」と、谷崎の「刺青」と対比しつつ「人を感動させる力に欠けている」と断じている(吉田精一『芥川龍之介』(194212、三省堂、引用は新潮文庫19581による)。

こういった谷崎や荷風との類縁の指摘は、同時代評にすでに見受けられたもので、「読売新聞」の「五月の文芸雑誌」という記事で、『新思潮』を取り上げているのだが「同人諸氏のものでは、享楽的なエツセンチツクな気分を喜んでゐるやうに見える。「玉村吉彌の死」(草田杜太郎氏)と云ふ、「老年」(柳川隆之介氏)と云ひ、明らかに谷崎式永井式である。」と言われていた(※エツセンチツク=風変わりな、草田杜太郎=菊池寛)。菊池と合わせて、荷風や谷崎の追随者という評価だったわけである。

 それからまた、先行研究に戻るが、「老狂人」と、この「老年」という作品には、いずれも老人を対象として、その姿を覗き見ることで内面を想像させるという同一の構造があることは先行研究によってしばしば指摘されるところである。この点に触れた先行研究として、奥野政元の論考がある。「老人達の、老人らしくない情熱の所在を一瞬のうちに浮かび上がらせて作品は閉じられている」と二作の共通点を指摘する奥野は、「江戸趣味やキリスト教が、そのものとして問われることはなく、何であれ、引きつけるものに憧れ誘い出される人間的真実が問われているのである」と論じている(奥野政元「習作期の問題――「老狂人」をめぐって」『芥川龍之介論』19939、翰林書房)。

 たしかに「老年」と「老狂人」には構造的な同一性があり、そこには芸術であれ、恋愛であれ信仰であれ、心を燃え立たせるものに価値を置くという高山樗牛に学ぶ所があったのではないかとした、芥川の態度美学のあらわれを見ることもできるかも知れない。ただその構造的な同一性を認めつつ、1910年の「老狂人」との差異にも留意するならば、旧作で扱われたのは信仰の問題であり、かつそれを見る私を恥じさせる「倫理」の問題であったのに対して、1914年の「老年」は一中節という芸、アートによって引き起こされる情の問題、色ごとの主題が扱われている。

中学時代の芥川は善の理想を強く掲げており、それが、一高時代において美の理想を掲げる耽美派の作家たちに接近していた。その変化の後で、「老狂人」と同様の構造を用いつつ描いたのが、柳川隆之介最初の小説「老年」であったと言えるだろう。

 一節、優れた箇所を引用しておこう。房さんの声が聞こえてくる、その部分の描写。

 

川の空をちりちりと銀の鋏をつかふやうに、二声ほど千鳥が鳴いたあとは、三味線の声さへ聞えず戸外も内外もしんとなつた。きこえるのは、薮柑子の紅い実をうづめる雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の音が、ミシン針のひゞくやうにかすかな囁きをかはすばかり、話し声は其中をしのびやかにつゞくのである。

 

 小説の音響効果としては、「老狂人」で秀馬鹿の慟哭が聞こえる前にあった豆を挽く臼の音と同工異曲だとは思われるが、千鳥の声を「銀の鋏」に喩えて、雪の音を「ミシン針」に喩えるところなどは、雪の日の静けさを際立たせていて好ましい。また芥川の文章意識の中には、美文的なものが深く這入り込んでいるが、ここには漢文訓読調の美文にしばしば見られた対句表現の大正バージョンといえるような、銀の鋏とミシン針という対がある。

 

次に第三次『新思潮』時代の戯曲である「青年と死と」を見よう。これは、芥川が公に発表した唯一の戯曲作品である。『新思潮』同人、久米にしても菊池にしても、まずは小説以上に戯曲によって高い評価を受けた。久米では「牛乳屋の兄弟」という社会劇調のもの、菊池では「父帰る」が極めて有名だが、対して芥川は、日本近代の戯曲史には、何の貢献もしていない。唯一あるのが、副題として括弧つきで「戯曲習作」とある「青年と死と」だったわけだが、所詮は習作であろう。

 「青年と死と」は第三次『新思潮』の19149月号に掲載された。作品の最後には(一五・八・一四)とあって、1914815日に完成したものと考えられている。この9月号の編集後記には、当初は別の作品を、「弘法大師御利生記」という戯曲を芥川=柳川は掲載する予定で待っていたのだができなかった。〆切ギリギリになって、かわりにこの「青年と死と」が持ち込まれたということが示されている。

当初は別の原稿、これも未定稿として実際に原稿用紙が残っているのだが、「弘法大師」についての劇を書いていて、それが出来上らずに代りに書いたとすると、かなりの速筆であったか、あるいは既に書かれていたものを基にしたか、ということになりそうである。

この「青年と死と」という作品は、象徴劇あるいは気分劇などと言われるような、神秘的な不可思議な世界を描いたものなのだが、明治の四十年代に久米正雄は、同じような気分劇・象徴劇を一高の校友会雑誌に載せている。そんな同級生の作品に刺激を受けて、一高時代に既に何かプランがあったのかも知れない。

あらすじを簡単にまとめましょう。AB二人の青年は、「唯一実在」とか「最高善」とかいうことばに食傷し、思想や哲学に疑念を抱いていた。そこで彼らは、あらゆる欺罔(あざむき)を破るために「快楽」を求め始める。二人は姿の見えなくなるマントを身につけて、夜ごとに後宮に忍び込み、多くの妃たちを犯して次々と妊娠させていた。ところがある夜、後宮に砂が撒かれていたために足あとを見付けられ、二人は警備の兵に追われ逃げだす。そこに、というか、そこで場面が変わって、二人の前に「俺は死だ」と名乗る男が登場する。

青年Bは男=死に対して「俺はまだ生きたい。俺にもう少し生活を楽しませてくれ」というすが、死は「お前は今日迄己を忘れてゐたらう」「すべての欺罔を破らうとして快樂を求めながら、お前の求めた快樂其物が矢張欺罔にすぎないのを知らなかつた」「己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ」「己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ」といい、青年Bは死んでしまう。

対して青年ABと異なり「死を予想しない快楽くらい無意味なものはない」という考えの持ち主であったが、死に対して「己はお前のほかに何も知らない人間だ。己は命を持つてゐても仕方ない人間だ。己の命をとつてくれ。そして己の苦しみを助けてくれ」という。すると、それまで「男」と表記されていたのが「第三の声」にかわり、その「第三の声」が「お前の命をたすけたのはお前が己を忘れなかつたからだ。しかし己はすべてのお前の行爲を是認してはゐない。よく己の顏を見ろ。お前の誤りがわかつたか。是からも生きられるかどうかはお前の努力次第だ」といい、青年Aは「己にはお前の顏がだん/\若くなつてゆくのが見える」と答える。

すると第三の聲は「(靜に)夜明だ。己と一緒に大きな世界へ來るがいゝ。」と呼びかけ、黎明の光の中に?い覆面をした男とAとが出て行く。あとにはBの屍骸が残っていた。というのがあらすじである。

「大川の水」について、「死」をまなざすことで「生」を見出すといった構図を強調したが、それと同様の構図がここにも指摘できるであろう。海老井英次は、「「青年と死と」に表出された死生の関係の図式、すなわち、〈死〉と接近することをとおして現出する新しい生、〈死〉によって凝縮された形で輝きを得る人生、それは自然主義的な、日常的・生活的な、持続する時間の堆積によって意味付けられる人生とは異質な、〈死〉を発条とする飛躍的な人生、瞬間的な人生の見方なのであるが、その定立が一つの〈原点〉性と見なし得るのではなかろうか。」と述べている(海老井英次「初期習作の世界――芥川文学の〈原点〉の検討――」『芥川龍之介論攷―自己覚醒から解体へ―』19882、桜楓社)。

「青年と死と」という作品には死と接近しそれをバネとすることで、凝縮された形で輝く人生という「死生の関係の図式」が描き込まれている、というのは、あらすじからでも了解されるところであろう。ただ、瞬間的な人生、というような部分になると、「青年と死と」から「瞬間的な人生」といった主題が導けるかどうかには、やや疑問がある。これは海老井が、のちの〈刹那の美〉などと呼ばれるテーマを持つ作品群を先取りして、作家論的に言ってしまっている部分かもしれない。ともかく、「大川の水」に見たのと同様な「死生の関係の図式」が、象徴劇・気分劇の形式でもって示されたのが「青年と死と」という戯曲習作であった。

さて、第三次『新思潮』は、この「青年と死と」が掲載された19149月の第八号をもって終刊するのだが、以降も柳川隆之介は他の媒体に作品を発表している。

 

 「客中恋」(『心の花』19149、短歌)

 「若人(旋頭歌)」(『心の花』191410、旋頭歌)

 「砂上遅日」(『未来』19152、短歌)

 「ひよつとこ」(『帝国文学』19154、小説、のち第二創作集『煙草と悪魔』191711

 「羅生門」(『帝国文学』191511、小説、のち第一創作集『羅生門』19175

 「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」(「読売新聞」1916112、書評)

 

 まずは『心の花』と第三次『新思潮』に書評を書いていた『未来』という詩の同人誌に、短歌を載せている。「若人」というのは旋頭歌(せどうか)で、短歌は五七五七七だが、旋頭歌というのは五七七五七七という形式をとった和歌の一種である。それから、『帝国文学』という雑誌に二つ小説を載せている。『帝国文学』は明治281895)年に創刊された、帝国文学会の機関誌である。なお、帝国文学会というのは、東京帝国大学の教官・卒業生・在校生によって結成された団体である。当時としては歴史のある雑誌であり、上田敏や高山樗牛の評論、それから夏目漱石の小説「趣味の遺伝」なども掲載された。大正91920)年まで続いて、全部で296冊出ている。芥川はこれ以前に短歌を、「桐」というのを載せてもらっていたが、1915年には二つ小説を発表している。

一作目の「ひょっとこ」は、「老年」と違って、のちに第二創作集『煙草と悪魔』(191711)に収録される。しかし、だからと言って自信のある作品だったとはいいがたい。この第二創作集というのは、当初、「偸盗」という題で出すことを予定していて、1917年の4月と7月の『中央公論』にに分載された「偸盗」という作品が目玉になるはずであった。同時代からの評価は比較的良かったのだが、作者自身がどうにも納得がいかなかったようで、それは単行本に生涯収めなかった。そのせいもあって、本を出すのに原稿が足りなくなって旧い原稿を持ち出したということらしい。

 

「羅生門」論の前提

そして、1915年に『帝国文学』に発表した二つ目の作品が「羅生門」である。先述のとおり、これは柳川隆之介という名義で書かれたもので、のちに彼の第一創作集、芥川竜之介名義で出した最初の本、『羅生門』に表題作として取られている。芥川の小説の原点というべきは、やはり現代においても代表作の一つと数えられる、この「羅生門」であろうというのは、まあ衆目の一致する所であろう。

「羅生門」は191511月の『帝国文学』に発表され(初出)、のちに19175月の第一創作集『羅生門』に収められる(初収)。更に翌19187月には作品集『鼻』に収められるのだが、この時に作品の解釈にも関わるような大幅な修正がなされており、これを定稿というふうに見做している。

「羅生門」は高校の国語教科書に広く採録されている作品だが、それはこの19187月の『鼻』所収版の定稿によっている。最初に、その違いについて紹介しておこう。

この「羅生門」という作品にはアルファベット表記の部分がある。これは初稿、『帝国文学』掲載時には「この平安朝の下人のSentimentalismに影響した。(初出)」と英語だったのだが、第一創作集『羅生門』に収めるにあたって、「この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した。(初収、定稿)」とフランス語に書き改められている。何かフランス語独特のニュアンスなども、あるいは込められているのかも知れない。

それから比較的目立つものとしては、老婆の長台詞の部分。初稿および初収では、「死人の多くは、皆その位の事を、されてもいゝ人間ばかりである。(…)自分は、この女のした事が悪いとは思はない。(初出、初収)」などと、語り手によって完全に整えられていた、間接話法を取っていた。それが、定稿『鼻』掲載版では、「死人どもは、皆、その位の事を、されてもいゝ人間ばかりだぞよ。(…)わしは、この女のした事が悪いとは思うてゐぬ。(定稿)」といったように老婆のセリフ風、直接話法というような形になっている。

改稿において最も際立っているのが作品の末尾で、定稿では非常によく知られた「下人の行方は、誰も知らない。」なのだが、初出では「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。(おはり)」というものであった。初収、第一創作集版でも「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」となっていて、ともかくも「強盗」に行く、ということを、念押しする結びになっていた。それと比べると、定稿の「下人の行方は、誰も知らない。」は含みを感じさせる表現で、そこに解釈の違いも出てくるし、また作家の変化を見るというような論点も出て来る。

それから定稿とそれ以前(初出・初収)で違う箇所として、もう一点、気になるのは、最後に下人が「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする体なのだ。」という直前の部分が、初出・初収では「老婆の襟上をつかみながら、かう云つた」だったのが、「老婆の襟上をつかみながら、噛みつくやうにかう云つた」と「噛みつくやうに」という形容が付加されていることである。ここにほんの七文字わざわざ入れたことには一体どのような意図があるのだろうか。

で、ひとまず改稿というテキストの問題からはじめたが、続いてこの作品の典拠についても見ておこう。「羅生門」は、これはいわゆる「王朝物」の第一作で、典拠となっているのは「今昔物語集」である。作中では二つのエピソードが取り込まれていて、一つは老婆の長台詞の中に出てくるものだが、「太刀帯陣売魚媼語」というもので、「美味しいと評判の干し魚の切り身を売る女がいた。ある日、この女に出くわすと、なぜか籠の中身を隠そうとする。見ると、蛇の切ったものが入っていた。姿の分らない魚の切り身を買って食べることはやめた方がいい。」という教訓譚、生活の知恵のような話なのだが、これを生きるためにする悪、というテーマに繋げている。

それからもうひとつはメインの筋に関わるもので、「羅城門登上層見死人盗人語」である。「「摂津の国の辺より盗せむが為に京に上りける男」が、羅城門の上で、死んだ女の髪を「かなぐり抜き」取っている老婆を見つける。何をしているのかと盗人に問われ、老婆は死んだ女、「己れが主にておはしましつる人」の髪を鬘にしようと抜いているのだと言う。盗人は「死人の着たる衣と媼の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて」下りて走って逃去った。」というのが元の話である。

高校の国語教科書における「羅生門」の扱い、生徒に課す問いとして、この今昔との比較をやらせるのは定番であり、中でも具体的な問いかけとしては、この今昔物語の男は「死人の着たる衣と媼の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて」とあらかた全部奪っていくのだが、「羅生門」の下人は老婆の服は奪うが抜いていた髪は奪っていない。そこから何が言えるかというのがある。

 ひとまず「羅生門」について書誌と改稿、および典拠といったテキストレベルの基本的な事柄を確認しておいた。続いて、同時代評と先行研究に触れたいと思う。前者は乏しく、後者は余りに膨大である。同時代評は二点あるがいずれも具体的なものではなく、「ちょっと変わった味のもの」「ちょっと面白い短篇」などといった言及があるに過ぎない。後年、芥川は「羅生門」は完全に黙殺されたと回想しているが、黙殺は言い過ぎにしても、ほとんど関心を持たれなかったのだと言える。

 

「羅生門」先行研究概観

対して先行研究としては、実に膨大な数がある。「芥川 羅生門」で検索すると、Ciniiでは百数十件だが、国文学論文目録データベースでは五百件を超える。おそらく、データベースで存在を容易に知ることが出来るものに限ってすら、「羅生門」論の全てに目を通した人間は存在していない。

そのなかから、百数十の論文に目を通した。先行研究の論点はおおよそのところ、次の四つの傾向を帯びるかたちで順に展開してきている。「羅生門」についての先行研究は当初、そこに「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」という作者の暗い人間認識を見たが、続いてそれに反する形で、作品の末尾で下人が「勇気を獲得」していることに着目し、そこに「勇気の獲得による自己の解放」という肯定的なメッセージを読み取るものが現れた。更に続いては、それを批判する形で、「羅生門」では語り手が下人を批評的に捉えていると論じるものが現れた。その後、新出資料として1990年代に創作メモが発見され、その内容を踏まえた論が出はじめている。

これら基本的な四つの論点を踏まえて、「羅生門」という作品を読んでみたい。

第一の論点は、はやくも戦中に吉田精一が示していたものである。吉田は「羅生門」について「下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。」との解釈を示している(吉田精一『芥川龍之介』194212、三省堂、引用は新潮文庫19581による)。

このような解釈については、2019年の本で橋本陽介が述べているように、余り解釈の揺れがないものと言える。高校の教育現場において「羅生門」は「「死体の女」「老婆」「下人」は三人とも自己のために他人を害する「悪」を行っている」ことから「「エゴイズム」の問題が議論できる」ものとされてきた(橋本陽介『使える!「国語」の考え方』20191、ちくま新書)。そしてこのような解釈は、吉田もそして橋本も述べているように、「羅生門」執筆前に芥川の経験していた失恋、それに関する書簡の記述が、その背景として存在している。

関口安義は1914年の夏ごろとしているが、芥川は同い年の吉田弥生という女性への無自覚な恋心を抱えていた。彼女とは幼馴染だったらしいが、1914年の初夏のころから家に遊びに行くなどの交流を深めている。手紙のやりとりなども残されていて、眠るときにあなたの事を思い出します、などと書いている。

19145月に『帝国文学』に発表した「桐」には、「TOシニョーリナYY」とあったが、シニョーリナはミスと同じ意味である、これはこの吉田弥生にささげたものである。「君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける」「君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落ち椿ぞも」などの唄は、幼馴染だった吉田弥生にむけた歌と解されていて、まあ歌を捧げるような間柄だった。恋愛とは言えないかも知れないが、それに近い親しみを感じていたのであろう。ともに吉田の家に遊びに行ってもいた詩人の富田砕花は、彼等の関係を、「順調に進んで行けば結婚という極めて平凡な道程を辿るはずであったもの」としている。

しかし、そんな吉田弥生の下に突如縁談が持ち上がる。それを知った芥川は、弥生に求婚したいということを養父母と伯母フキに告げた。がそれは彼等の強い反対にあう。そのあたりからの顛末は、芥川自身が井川恭に宛てた手紙で語っているので、それを見てみることにしよう。

 

ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた(略)その内にそれらの事が少しづゝ知れて来た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた/僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手抜かりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた/家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた/あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云つた(略)一週間程たつてある家のある会合の席でその女にあつた 僕と二三度世間並な談話を交換した 何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時僕は女の口角の筋肉が急に不随意筋になつたやうな表情を見た(略)二週間ほどたつて女から手紙が来た 唯幸福を祈つてゐると云ふのである

 

芥川家の人々が反対した理由というのははっきりとしていない。吉田家が士族ではないことが反対を呼んだ、という人もいるし、すでに縁談が来ている女性にプロポーズしようとするやりかたが旧時代を生きていた養家の人々には受け入れられなかったのでと推測する人もいるが、答えは出る問題ではないようだ。

 そうした事件があって書かれたのが、次の書簡で、これが「羅生門」のテーマをエゴイズムと見なすことに力のあったものであった。

 

 イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂寞を癒すことは出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのままに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ

(略)僕は時々やりきれないと思ふことがある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

 

 芥川についての浩瀚な評伝のなかで関口安義は「彼は事件を通して、〈家〉がいかに自分を束縛するものであるかを知る。(略)愛する女性への結婚の申し入れという個人の問題も、養父母と伯母フキの同意なしには決して実現するものではなかった。」とこの失恋事件の影響について語っている。龍之介と家族との間にどのような話し合いがもたれたのかなど、もはや知り得ないことが多いために、エゴイズムをめぐる芥川の思索がどのような経緯を経て導かれたのかは知ることは出来ないが、吉田精一は「養父母や彼自身のエゴイズムの醜さ」をこの体験にあたって痛切に感じたのだろうとしている。

 

 また、この失恋事件が「羅生門」と結び付けられるのは、ただ「羅生門」執筆の以前にそれが起きていたから、ということだけではなく、芥川自身の発言から齎されていたものでもある。これは「あの頃の自分の事」という作品からの引用だが、

 

自分の頭の象徴のやうな書斎で、当時書いた小説は、「羅生門」と「鼻」との二つだつた。自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかつた。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取つて、この二つの短篇を書いた。

 

 というようにあった。ここから、「羅生門」と「鼻」二つの作品は、恋愛問題の影響を受けている状況下で書かれたと言うように見做されてきた。この「あの頃の自分の事」における言及部分について先行研究が引っかかってきたのは、この「愉快な小説」という部分である。「羅生門」を読んで、これは「愉快な小説」だと思うというのは、なかなかに難しい事のように思われる。そこで三好行雄などは、「「羅生門」という小説は芥川の意図したような(あるいは後年の彼がそう思いこもうとしたような)、「現状と懸け離れた」愉快な小説では決してなかった」(三好行雄「「羅生門」〔鑑賞〕」『解釈と鑑賞』197212-19735)というように、「羅生門」は「愉快な小説」として書かれたという考え方を斥けている。

 それに対して、いや「羅生門」は「愉快な小説」なのだ、と主張したのが「明るい「羅生門」」論というもので、その代表的な論者が関口安義である。関口氏のこの失恋事件に対する認識は、先に触れたように、この事件は芥川に「〈家〉がいかに自分を束縛するものであるか」を知らしめるものであった、というもので、その認識から、関口は「羅生門」の末尾で下人が勇気を獲得して盗人になるという展開に、肯定的なニュアンスを与える読みを示した(関口安義「「羅生門」「芋粥」」『批評と研究 芥川龍之介』197211、芳賀書店、など)。「なる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説」とは、()失恋事件を通して実感したわずらわしい人間関係や人間倫理の否定、つまり己を縛る律法からの完全な解放にこそあった」と、自己の生のために盗人になるという、エゴイスティックな、反倫理的な振る舞いをするところに、自己を拘束するものからの解放というテーマを関口は読み取るわけである。

 

下人は、自らの倫理に縛られ、盗賊になることにふんぎりがつかないで逡巡しているのである。(略)下人の抱いた考えは、平時の人間社会においては健全なモラルであるが、今、下人の置かれている状況では生を継続するための〈勇気〉にブレーキをかけるところのものであった。(略)下人が老婆を介して得た論理は、人間倫理の完全な否定であり、まったく新しい世界への飛躍であり、己を縛る律法からの完全な解放であった。

 

とこれが、現代の芥川研究の第一人者である関口の示した、明るい「羅生門」論といわれるものであった。吉田論に始まる暗い「羅生門」論では、「羅生門」に描かれたのはエゴイズムの醜さであるとされてきたのだが、対して関口論を代表とする明るい「羅生門」論では、「羅生門」には、そのエゴイズムを肯定するような視点が描き込まれているのだ、というように見做される。このようなエゴイズムの肯定という論理に関わって、更に論を展開したのが、次の浅野陽氏の論文である(浅野洋「芥川龍之介――『羅生門』をめぐって――」(『日本の説話6近代』19743、東京美術、および、浅野洋「解説」浅野編『羅生門 今昔物語の世界』芥川龍之介作品論集成第一巻、20003、翰林書房)

 浅野が目を向けるのは、当時の芥川が武者小路実篤の影響下にあった、という点だ。「あの頃の自分の事」には、大学時代の自分、芥川が武者小路に影響を受けていたことが次のように語られている。

 

我々は大抵、武者小路実篤氏が文壇の天窓を開け放つて、爽な空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵に接して来た我々の時代、或は我々以後の時代の青年のみが、特に痛感した心もちだらう。

 

このような記述から、「羅生門」執筆当時の芥川に武者小路からの影響を確認した上で、浅野は武者小路の「或日の一休」という戯曲に着目する。この戯曲は、一休宗純を、主人公としたものなのだが、この一休は、この劇のなかで、食べるものに困って、追剥をしている。そして、その行為を次のように肯定してみせる。

 

一休。いや餓えてする泥棒はわるいことではない。自分の身体を餓えさすより泥棒をする方がいゝのだ。餓えずに泥棒をすることは俺でも賞めはしない。しかし餓えてする泥棒は賞めていゝ。俺は前から餓えたら泥棒をしてやらうと思つてゐた。さうして餓えた奴の手本にならうと思つてゐた。

 

芥川が実際に「或日の一休」を読んでいたかは分からない、と浅野氏は論文のなかで述べているが、この作品は『白樺』に掲載されたもので、芥川が当時『白樺』をよく読んでいたことは、現在ではさまざまな研究から明らかになっている。そのことを思うと、この「或日の一休」の影響というものは、まさに餓えないために仕方がなく盗みを働く、という「羅生門」を考える上で、無視の出来ないものとなってくる。

浅野は「或日の一休」における「その日ぐらしの生活者の生存手段でさえ《餓えたものはぬすんでいい》という一休の《追ひはぎ》」の論理に「自己完結的なエゴイズム」と「底の浅い倫理の虚妄を破ってみせるエネルギー」を読み、そこに「羅生門」の「創作動機に介在しながら機能した“愉快なエゴイズム”」を想定している。「両作の色調の違いを別とすれば「生を絶対の前提として、《餓え》に《追ひはぎ》を優先させた一休の論理から、下人の《引剥》をよびこむ老婆の生活論理までの距離」は「近い」とする。」。 

作品解釈の是非、についてはひとまず措く。この浅野の指摘がきわめて示唆深いのは、「羅生門」という作品に、武者小路実篤の影響の存在を想定しているという点だ。これは、単に恋愛問題との関わりから「羅生門」という作品を捉えるという吉田や関口の論を越えて、広く芥川の文芸・芸術観から「羅生門」を問いなおすという契機を与えてくれる。

そこで目を向けてみたいのは191411月、失恋事件以前、直前の書簡において、芥川が自己の芸術観の変化を語っていたことである。

 

画かきでは矢張りマチスがすきです僕のみた少数な絵で判断して差支へないならほんとうに偉大な芸術家だと思ひます、僕が求めてゐるのはあゝ云ふ芸術です日をうけてどん/\空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる芸術です其の意味で芸術の為の芸術には不賛成です此間まで僕のかいてゐた感傷的な文章や歌にはもう永久にさやうならです、同じ理由で大抵の作者の作には不賛成至極です

 

ここで芥川は「芸術の為の芸術」や自身がそれまで書いていた「感傷的な文章や歌」を批判して、「日をうけてどん/\空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる芸術」への志向を語っている。この芸術観の変化に付いてはさまざまなことを語ることが出来るのだが、ここでは一点、「空の方へのびてゆく草のやうな」という比喩に着目したい。このような草の比喩は、同じ年の書簡における「草と木との中にわれは生きてあり日を仰ぎてわれは生きてあり草と木との如くに」という歌にも用いられてた。この歌を見ると、草木の成長という比喩が、「われは生きてあり」というように、自己の成長と重ねて用いられているものであることがわかる。

そしてまた、先にも触れた「あの頃の自分の事」のなかで、芥川が「武者小路の「雑感」」について、「雑感の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焔を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐることも事実だつた。」とその影響を語っていたことも踏まえるなら、この草木の比喩が武者小路に由来するものであることは明白になる。武者小路の雑感から、いくつか引用しておこう。

 

草木を見よ。彼等は如何にもして生長しようと努力してゐる。

何故か、

たゞ自然がさう強ひるのであらうか。

知つてゐるものがあればたゞ自然だけである。

吾々は自然に愛されなければならない。自然のよき伴奏者にならなければならない。さもなければ自然の笛にあはせて踊らなければならない。それには先づ生長しなければならない。根が自然にとゞく迄生長しなければならない。(「生長」)

 

自分は自分を侮辱するもの殊に自我を圧へつけようとするものに対して制し難き悪意を持つ。

 

この本能を是認してゐる自分は自分の自我を侮辱する物、圧へつけやうとするものを、軽蔑し払いのけないではやまない。或木が枝をのばさうとするとき他の木の枝にさはるとする。その時、生長する二つの木は戦はねばならぬ、遠慮したら損してしまふ。自分はさう云ふ戦ひは敢てしたいと思ふ。さもないといぢけてしまふ。

 

自然がこの本能をなんの為に与へたかは知らない。しかし草木の生長する力を見るのは痛快なことである。自分は自分を生長するだけ生長させたい。(「自我を圧へつけようとするもの」)

 

ここにあるのは、「草木」のイメージに仮託された自己の成長を肯定する思想であり、また、自己の成長を押さえつけようとするものとの闘いを求める思想である。芥川は1914年末の時点で、それまでの文章、随筆や短歌の世界から抜け出すことを意識し、このような武者小路の思想の影響下に、「日をうけてどん/\空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる芸術」を志向し始めた。「羅生門」という作品は、そのような芸術観の変化の後に、なんらかの屈折を想定するにしても、その延長線上に成立した作品であると考えねばならないように思われる。

「羅生門」の作品読解においては、失恋事件以後の書簡において「エゴイズム」という問題が扱われていることから、その作品においても「エゴイズム」という主題が扱われていると見なされてきた。一方で暗い羅生門では、作品にはエゴイズムの醜さが描かれていると捉えられ、また一方で明るい羅生門では、作品の特に末尾において、エゴイズムの肯定が描き込まれていると主張しているようだ。これらは両極端な作品解釈と言えるだろう。それらをひとまず視野に入れた上で、ここで最後に持ち出してみたいのが、失恋事件の後に書かれた書簡、そしてエゴイズムに言及するものでありながら、これまでほとんど黙殺されてきた一文についてである。

イゴイズムを離れた愛があるかどうかという書簡から三日後、1915312日付の、同じく井川恭宛の書簡からの引用である。

 

僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに強くなりたい 僕を苦しませるヴァニチーと性欲とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい

井川恭宛書簡(1915312

 

 これまでの論文では、エゴイズムの肯定、否定を「羅生門」という作品に読み取ることはあっても、エゴイズムはいかなる条件において肯定されるのか、正当化され得るのか、という問題については注意を払ってきていない。「エゴイズム」の否定でも単純な肯定でもない、条件付きの肯定というものを、エゴイズムをジャスティファイしうべきものに向上させるためにはどのようにしたら良いのかという問いに、「羅生門」が関わっている可能性はないのだろうか。

 

Defense for Rash?mon

「羅生門」という作品をめぐっては、まず何より「エゴイズム」という主題をめぐって、それを否定的ネガティブな形で捉え、その醜さや仕方のなさ、人間存在の悪を描いたものとする論と、逆に、自己を拘束するしがらみから逃れること、その解放のエネルギーに着目するものと、おおまかに二通りの方向が示されてきた。

そのような研究の展開の後で、Defense for Rasho-mon、羅生門の弁護と題された五つの英文のメモが発見される。まとめて引用しておこう。

 

英文評1

Defendence for “Rasho-mon”

 This story is not founded upon the “taste” nor upon “interest.

英文評2

Dear Mr.Naruse,

 I think you read my Rasho-mon and too, can find nothing smelling of lart pour lart.

英文評3

Defendence for “Rasho-mon”

 I didnt write this story according to

英文評4

Defendence for “Rasho-mon”

 This story is the best work I have ever written. This I can say heartily. But I must also admit that I could not fully express myself in this short story; some part are very weak and desperately dull-to-read. When I read and re-read my story in print, I could not help feeling a keen self and laughing at my haughtiness which makes me scorn almost all the works of contemporary Japanese writers. This mood is not at all agreeable.

英文評5

 Defence for “Rasho-mon”

 Rasho-mon” is a short story in which I wished to “verkörpern” a part pf my Lebensanschauung,――but not a piece produced merely our of “asobi-mood”.

 It is “moral” that I wished to handle. According to my opinion, “moral” (at least, “moral of philistine”) is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.

「英文評」(「羅生門」関連資料」) ?

 

基本的に、冒頭書き出しだけの断片であるが、五つあるうちの一つは、一定の長さ、といっても、ノートの上半分に書かれている程度だけれども、まとまった内容があって、そこに、羅生門ではモラルの問題を扱おうとした、ハンドルしようとした、という作者の意図らしきものが、事後的に自作を弁護するという形ではあるが、語られていた。

1990年代になって、公になったこの新出資料、そのメモの内容を「羅生門」の理解に、明示的に、結びつけたものは、500近くあるという羅生門の先行研究の中でも、いまだ数本に過ぎない。その内の一つが、フランス文学の研究者、フローベールの草稿研究で著名な松澤和宏の論文(松澤和宏「サンチマンタリスムの行方――「羅生門」から「明日の道徳」へ」『国文学』20082)である。それから、おおよそのところで松澤論と同様の指摘をしているものに、西山康一氏の論文(西山康一「羅生門―〈古典〉をめぐる同時代状況から」『解釈と鑑賞』20079)がある。

西山は、羅生門の上で下人が老婆の行為を見つけた時の心理について、下人には合理的に善悪を判断できていないことから、その「善悪」の根拠がその場の雰囲気に基づくものでしかないのだと指摘する。これは、松澤論でも同様で、一体何ゆえに「あらゆる悪に対する反感」などというものが生じたのかを、死骸の散乱する羅生門の上という特異な状況とそれの与える気分に求めるという解釈であった。

更に、この時点では「許すべからざる悪」といったり「悪を憎む心」と呼ばれたりしていたのが、あとになると「憎悪の心」や「前の憎悪」とされていて、ここに下人の「モラル」が結局感情的なものでしかないということが暗示されているように見える。老婆を取り押さえたあとには「今までけはしく燃えていた憎悪の心を、何時の間にかさましてしまった」などと直ぐに冷めてしまうかと思えば、鬘を作ろうとしていたという老婆の返答を聞くなり「又前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに」心の中に入ってくる。最後には、老婆を捉えた時とは「全然、反対な方向に動かうとする勇気」を起こして老婆からの追剥を敢行する。ここにモラルの移ろいやすさが認められる。そのような展開を押さえて、西山氏はこのように結論している。

 

このようにみてゆくと、「羅生門」の語り手の分析・批評的態度は、その時々の置かれた状況や感情によって次々と変化してゆく、下人の「悪を憎む心」の根拠の相対・感情性、換言すれば「モラル」というものがその場の状況・感情から創出されるものでしかない、という作者の主観・思想を浮かび上がらせていることがわかる。

 

創作メモの記述を、作品における下人の心理の展開にあてはめるという作業として、これは適確なものと言えよう。西山論や松澤論、それからこのメモにも若干触れている田中実の論(田中実「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」『小説の力――新しい作品論のために』19962、大修館書店)にしても、下人のモラルの相対性を描き出すことが作品のねらいであったとする点で一致している。

更にこれらの論の一致点ということを言えば、そこでは長らく「羅生門」をめぐって議論されてきた、あの「エゴイズム」なるテーマが、まったく取り上げられていない、綺麗に拭い去られているという点を挙げることもできる。

このテーマは、確かに、吉田精一や三好行雄といった論者を染め上げていた歴史性、「羅生門」という作品以上に、戦後という問題、それを読む読者の側の問題意識の投影として読まれる部分というのがある。しかしながら、彼等、吉田や三好らが参照しているように、若き日の芥川龍之介の書いた幾つかの書簡、そこに示された思索の内には「エゴイズム」という問題が抜き難く存在していた。そしてまた、同時代との関わりを見回しても、武者小路実篤からの、その雑感にしめされていた自己肯定の思想の受容は、やはり芥川の初期書簡の内に認めることの出来るものだった。

ノートに残された断片的な記述をもって、作品のテーマを確定する、作品の内容をそれに当てはめて読むというのは、作品そのものを小さなものとすると同時に、作者の意図というものも矮小化しているのかもしれない。

暗い「羅生門」論から明るい「羅生門」論へ、更には、反・明るい「羅生門」論へ、という形で進展してきた「羅生門」研究自体が、いささかセンチメンタリズムに憑りつかれた、研究という場の状況に左右されたものになっているのではないか。先行研究を並べて見ると、ゆらゆらと振り子のように行きつ戻りつするその展開にいささかの眠気を感じるとともに、そんな皮肉さえ浮んでくる。ただ恐らく、これは先行研究の過剰なほどに多い「羅生門」だけの問題というわけではなく、あらゆる作品の先行研究、作品の新たな解釈を示そうとする試みが、既存の説の否定によって自己を主張しようとする以上、多かれ少なかれ、同様の傾向を帯びているはずです。

そういった流れから完全に開放されることは難しいにせよ、それまで言われていたこととは異なる自己の論理を立てるためには何が必要なのか。そこで考えてみたいのが、「羅生門」を芥川の初期作品の展開の中で、近似するテーマを持った作品とのかかわりに於て捉え直すというアプローチ、その可能性についてである。

 

「羅生門」読解

ひとまず、現在において「羅生門」について考えようというとき、やはりこの「英文評5」というものを無視することは出来ない。「ここで私が扱おうとしたのは、「モラル」なるものである。」という作者の自作に対する弁護は、作中に「悪を憎む心」や「憎悪」といったワードが用いられていることから肯定されるものだった。では、芥川の初期作品において「モラル」の問題、ないし「悪を憎む心」、「憎悪」といった感情はどのように扱われていたのか。まずはこれを確認することにしてみたい。

「羅生門」は平安末期を舞台に「盗人」となる男の姿を描き出す作品だったけれども、彼の初期作品の内には、大正の現在において「盗人」となる男の話というのもある。それが19169月の『新思潮』、第四次『新思潮』に掲載された「猿」、副題を「或る海軍士官の話」とする作品である。舞台は遠洋航海をすませてやっと横須賀に入港した軍艦の中、そこで窃盗事件が発覚し、犯人探しが行われる。総員を身体検査、所持品検査し、盗品の銀時計やもろもろが奈良島という一人の信号兵の持ち物の中から見つかる。しかし、その犯人とみられる奈良島の姿が見当たらない。「僕」には未だそのような経験を持たなかったが、軍艦の中では盗品は見つかるが、その犯人が自殺してしまう、特に石炭庫で首を吊ってしまうということが時々あり、ある将校は大いに狼狽する。対して、語り手である「僕」はその狼狽している将校を、普段は精神修養なんのと言うくせにと軽蔑しつつ、「愉快な興奮」を感じながら犯人探しをする。

そこに一つのエピソードが差し挟まれる。それは、航海中、オーストラリアで買った一匹の猿が艦長の時計を奪いとってどこかへ行ってしまい、みんな中でわいわい探したという思い出で、奈良島を探す心持はこの猿を追いかけた時と同じようなものだったという。「今日の猿は、あいつ程敏捷でないから、大丈夫だ」などと、奈良島を猿呼ばわりしながら探していると、「僕」はまさに石炭庫に入っていこうとする彼を、つまりは自殺しようとする奈良島を発見する。「僕」は愉快な昂奮のもとに奈良島を捕らえ、その抵抗のなさに苛立ちや不満すらいだきながら、その奈良島の顔を見る。

それはどんな小説家も書くことは出来ないような恐ろしい表情で、「僕」は奈良島を掴まえ罪人としようとすることに自責の念を感じる。また奈良島の口から「面目ございません」という言葉を聞くと、「私たちよりも大きい、何ものかの前に首がさげた」いような気持になる。友人から「猿を生け捕ったのは手柄だな」などと言われ、「僕」は「奈良島は人間だ、猿じゃない」と語気を荒くし、先に軽蔑した将校、狼狽していた副長が、自分たちが奈良島を猿呼ばわりしたときにも人間らしい同情を失っていなかったことを思い、自らの愚かさを感じる。最後に奈良島が収監されたことについて、「猿は懲罰をゆるされても、人間はゆるされませんから。」と述べて作品が終わっている。

この作品、「猿」という作品は、「盗人」を描き、また「猿」と「人間」という対比を用いているところなど、猿に喩えられる「老婆」と「盗人」にならんとする「下人」とを描いた「羅生門」に通じる要素を持っている。反・明るい「羅生門」論では「盗人」たる「下人」は批判されるべき愚か者ということになりがちだが、この作品「猿」において「盗人」たる奈良島は批判されるべき愚か者として描かれているわけではない。その理由、つまり奈良島がこの作品で批判の対象になっていないというわけを考えてみると、そこにはやはり、作品のタイトルにもなっている「猿」と「人間」という対比が関わっているように見える。

奈良島の「面目ございません」という言葉は、かすかながらも鋭く、針を打ったように神経へ響くものとされる。それは石炭庫で自殺を遂げんとするような、深い自責の念から出た言葉であると読むべきであろう。自らの罪を罪と思うような内面性のゆえに、奈良島は猿という動物とは区別される、「奈良島は人間だ、猿じゃない」と、強く主張されることになっているのではないか。

いま、罪を罪と思うような内面性、というものを「猿」の奈良島に読み取ってみたわけだが、これと通じる主題があつかわれているものとして、19176月の「新潮」に掲載された「さまよへる猶太人」という作品がある。これはゴルゴタの丘にイエス・キリストがはりつけにされて行くとき、とっとと行けよと嘲笑ったユダヤ人の男が、イエスより、私は行くが、お前は待っていろ、と言われ、それによってそのユダヤ人の男は最後の審判の日まで死ぬことも出来なくなり、世界を放浪しているという伝説について、それについての学術的なレポート、といった体裁で書かれた作品である。

学術レポート形式ということで非常にペダンチックな内容を持っているのだが、ネタ本は作中で「ベリンググツドの説」として触れている、バーリング・グルードの『中世紀の珍奇なる神話』の第一章である、というのが明らかになっている。そういった作品であるため、あらすじをまとめるのは中々に困難なのだが、ペダントリーを省いてまとめると、語り手の「自分」は「さまよえるユダヤ人」の伝説に興味を持っているが、そんな中に二つの疑問があり、最近発見した古文書によってその二つが解消されたので、その古文書と共に公表する、という。この古文書というのはフィクションで、つけられていないわけだが。それで、その二つの言うのの一つは「さまよへる猶太人」はあらゆるキリスト教国に現れているが、はたして日本には来たことがあるのか、という点で、発見したとする古文書には平戸から九州へわたる船の中でフランシスコ・ザビエルとこのさまよえるユダヤ人が出会っているとある、といってその疑問に答える。

そうしてもう一つの疑問というのが、作品の中心になっているもので、その「さまよへる猶太人」はイエス・キリストに非礼を行ったために永久に地上をさ迷うことになったけれど、同じようにキリストに唾を吐いたり石を投げたりしたものは大勢いたはずなのに、なぜこの「さまよへる猶太人」のみが、最後の審判まで生き続けるという呪いをかけられたのか、というものだった。作品の終わり近くになって、さまよえるユダヤ人ことヨセフが、ゴルゴタの丘へゆくイエスを打ち叩く一場が描かれる。ヨセフは周囲の熱狂の中で、ユダヤ教の祭司たちへの忠義ぶりを示したいと思って、どこか死んだ兄に似た眼をしていると懐かしくも感じていたイエスを打ち、侮辱する。するとイエスは、死んだ兄に似ていると思った目でヨセフをじっと見つめ、「行けと云ふなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待つて居れよ。」という。その言葉が、ヨセフの心に刹那に焼き付いてしまう。

そうして強い後悔を感じ、連れ去られていくキリストを見送ることになる。そうして最後に、ヨセフ=さまよえるユダヤ人のこんなセリフが引かれる。「されば恐らく、えるされむは広しと云へ、御主を辱めた罪を知つてゐるものは、それがしひとりでござらう。罪を知ればこそ、呪いもかゝつたのでござる。罪を罪とも思はぬものに、天の罰が下らうやうはずはござらぬ。云はゞ、御主を磔柱にかけた罪は、それがしひとりが負うたやうなものでござる。但し罰をうければこそ、贖ひもあると云ふ次第ゆゑ、やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきはまりました。罪を罪と知るものには、総じて罪と贖ひとが、ひとつに天から下るものでござる。」

この台詞によって、先の第二の疑問が解消された、とする。作品の中でヨセフの姿は、「石をも焦がすやうなエルサレムの日の光の中に、濛々と立騰る砂塵をあびて、ヨセフは眼に涙を浮べながら、腕の子供を何時か妻に抱きとられてしまつたのも忘れて、何時までも跪いた儘、動かなかつた。……」と、このように描かれているが、この場面は嶌田明子が言うように、それまでのペダンチックな記述への辟易とした印象から転じて「〈読者〉の感情をゆさぶるに充分な感動的な記述である」といえる(嶌田明子「「さまよへる猶太人」論――「伝説」から「芸術上の作品」へ」『上智大学国文学論集』19991)。

そのことを考え合わせれば、罪を罪と知り、自らの罪を負うヨセフの精神は、肯定的な関心を向けられるものであったと推定することができるのではないか。

それからもう一作、「煙草と悪魔」という『新思潮』の191611月のものに掲載された作品を見ておきたい。これは、芥川の第二作品集『煙草と悪魔』の表題作ともなったもので、というと、優れた作、自信作であるように思われるかも知れない、内容的にはそう大したものではない。どうやらこの第二作品集というのは出版社(新潮社だが)、その強い意向で始め断ったにもかかわらず出すことになったというようなものらしく、収録された作品の中では先の「さまよへる猶太人」と「或る日の大石内蔵助」くらいしか見るものがない。

時は天文十八年、1549年というのはフランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト境を不況に音連れた年だが、悪魔はその従者に化けて日本についてやってきた。しかし日本にはまだまだ信者もいないので、誘惑して堕落させる相手もいない。退屈した悪魔は宣教師に化けたまま、時間つぶしに園芸に凝り始める。ある日、牛を引いた牛商人が通りかかる。この男がキリスト教に帰依したというのを聞いた偽宣教師は、彼とある賭けをする。この畑に育てている植物の名前を当てたなら、この畑に生えているものを全部やるが、三日後までに答えられなければあなたから何かを貰おうと。そこで牛商人はつい、当たらなかったら何でも差し上げますと主キリストに誓ってしまう。すると、偽宣教師は正体を現して、ならば体と魂を貰うといって去る。牛商人は後悔するが、一計を案じて見事その畑の植物が煙草という名前だと知り、悪魔の鼻をあかして煙草を悉く自分のものにする。そんなお話しが語られた後で、語り手がその伝説について皮肉な解釈を加える。

悪魔は賭けに負け、牛商人は助かったが、煙草という誘惑を広めた点では成功したのではないか。人間は誘惑に勝ったと思う時にも、実際は負けているのかもしれない。

こういった、お話しとしてはそれなりに面白い、子供なども喜びそうなものであるが、見ておきたいのはその悪魔がタバコ栽培を始める、畑仕事に精を出し始めるときの気分と情景といったものである。

 

丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞の底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むさうに、響いて来る、その鐘の音が、如何にも又のどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のやうに、いやに冴えて、かんと脳天へひゞく所がない。――が、かう云ふ太平な風物の中にゐたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だらうと思ふと、決してさうではない。

彼は、一度この梵鐘の音を聞くと、聖保羅の寺の鐘を聞いたよりも、一層、不快さうに、顔をしかめて、むしやうに畑を打ち始めた。何故かと云ふと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々たる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行はうと云ふ気にもならずにしまふ。これでは、折角、海を渡つて、日本人を誘惑に来た甲斐がない。――掌に肉豆がないので、イワンの妹に叱られた程、労働の嫌な悪魔が、こんなに精を出して、鍬を使ふ気になつたのは、全く、このややもすれば、体にはひかかる道徳的の眠けを払はうとして、一生懸命になつたせゐである。

 

西洋の悪魔に悪をしようという気も、また善をしようという気も失わせてしまうような「梵鐘の音」とは、ひとまず東洋的なもの、と呼ぶべきものかも知れない。「水蒸気」に「靄」、「ぼうん」とした響き、「曖々たる」まさにぼんやりとした日の光、青年期以来の芥川好みといっていいであろう、こういった描写が、善をしようと云ふ気にも、悪を行はうと云ふ気にもならなくなるような「道徳的の眠気」を齎すものとして描かれている。

このことは、「羅生門」で扱おうとしたという〈モラル〉、気分や心の動揺、それを齎す状況の産物としての〈モラル〉という問題を考える上において、いささか示唆的なものと言えるのではないだろうか。「羅生門」の下人も、盗人になるか餓死するかといった道徳的な問題、善悪に関わる思索を抱えながら、雨の中でそのどちらにもつかないままぼんやりとしていた。

ひとまず、〈モラル〉という視点から、「猿」と「さまよへる猶太人」の二作品を読み、そこに罪を罪と知り、自責の念を持つという人間としての内面性に価値を置く、そんな、作者芥川の〈モラル〉をめぐる思索を取り出してみた。加えて、「煙草と悪魔」において初期の芥川が、善悪の問題をぼかしてしまうような、東洋的なものを「ぼんやりとしたイメージ」によって描き出していたことを確認した。

Defense for rasho-monという英文メモにより、モラルを扱おうとしたと考えられる「羅生門」を、こういった初期芥川の〈モラル〉をめぐる思索の中で捉え返してみるなら、作品の解釈はどのようになるだろうか。それを考えつつ、更にもう一つ二つ、芥川の初期作品を「羅生門」と結びつくような視座の下に取り上げてみたい。

その一つは、19168月の『新思潮』に掲載された「仙人」という作品だ。この作品は末尾に(二三、七、四)と脱稿の日付が書いてある。これは大正四年、1915年の七月二三日ということであるから、同じ年1915年の11月に『帝国文学』に発表された「羅生門」に先立って、あるいは同時期に書かれた作品であることがわかる。上中下の三部に分けられ、大体羅生門と同じくらいの長さの作品。

舞台は中国、それも北の寒い方らしい。主人公は李小二という鼠に芝居をさせて街を渡り歩く見世物師で、不安定な生活を送り、その貧しさに苦しんでいる。まずそんな李の境遇と苦悩が語られるのが上、それから中ではこの李正二が雨宿りに入った山心廟、山の神を祭ったおやしろで、ひとりの見苦しい、乞食らしき老人に出会う。李は自分の方がこの老人よりは生活的に恵まれていると思い、同情を寄せるが、実はその老人は仙人で、その場にあった紙銭を、紙幣を模したお供え物を、金銀の本もののお金に換えてしまう。下は、李が仙人になぜそんな乞食を暮らしをするのかと問うと、「人生苦あり、以て楽しむべし。人間死するあり、以て生くるを知る。死苦共に脱し得て、甚、無聊なり。仙人は若かず、凡人の死苦あるに。」と答えた、ということが語られ、仙人は、人間の生活が懐かしくなって、わざわざ、苦しい事を、探してあるいてゐたのであろう。というところで作品が終わっている。

この作品で着目しておきたいのは、上のところで語られている李小二の苦しみ、それに関連して述べられている、その李本人は自覚できていない、無意識的な憎しみについてである。

 

何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。勿論、李は一度もさう云ふ問題を考へて見た事がない。が、その苦しみを、不当だとは、思つてゐる。さうして、その苦しみを与へるものを――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎んでゐる。事によると、李が何にでも持つてゐる、漠然とした反抗的な心もちは、この無意識の憎しみが、原因になつてゐるのかも知れない。

しかし、さうは云ふものの、李も、すべての東洋人のやうに、運命の前には、比較的屈従を意としてゐない。風雪の一日を、客舎の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向つて、こんな事を云つた。「辛抱しろよ。己だつて、腹がへるのや、寒いのを辛抱しているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。それも、鼠よりは、いくら人間の方が、苦しいか知れないぞ………」

 

ここで、主人公李自身は、そういう問題を考えてみたことがない、と言われながら、書きつけられている苦悩は、作者である芥川が、あの書簡のうちに漏らしていたものと、極めて似通ったものである。イゴイズムをはなれた愛があるかどうかと書き始められたあの1915年3月9日付の井川恭宛書簡には、何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある、とあった、その苦しみが、「羅生門」の直前に書かれたとみられる「仙人」には、かなり克明なあり方で反映している。

李に苦しみを与えるのは、不当なるものと捉えられている何事かであり、それは無意識的な憎しみの対象となっている。不当であるということを悪と言い換えることが許されるならば、ここには悪に対する憎しみが描かれていたのだと考えてみることもできるのではないか。しかし、このような憎しみは、すべての東洋人のやうに、運命の前には、比較的屈従を意としてゐない、とされるこの「仙人」においては追及されていない。

出会った老人が仙人で貧困に苦しんでいた李はお金持ちになりました、というのでは、まったくお話しにならないともいえる。この取り残された課題が、直後ないし同時期に書かれた「羅生門」に流入した可能性というのは、やはり考えてしかるべきではないかと思われる。

「猿」と「さまよへる猶太人」、「仙人」と「煙草と悪魔」、この四つの作品より〈モラル〉に関する事柄を取り出してみたわけだが、続いてはこれらを踏まえた上で「羅生門」における〈モラル〉について考えてみよう。作品冒頭、「下人」は雨の降る羅生門の下で、行き所が無くて途方に暮れている。夕方から降り出した雨模様の天気は、彼のサンチマンタリスムに影響を与えている。

 

雨は、羅生門をつゝんで、遠くから、ざあつと云ふ音をあつめて來る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支へてゐる。

 

このような景色をぼんやりと眺め、その雨音を聞くとなく聞いている下人は、盗人になるという勇気を、つまりは悪を行おうという気になれずにいる。彼の考えは「盗人になるより外に仕方がない」というもので、盗人になるべきだ、でも、盗人になる必要がある!、でもない。この「仕方がない」という考えは、彼がある諦めの心境において盗人になるという行為を考えていることを示すものであろう。

「この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災がつゞいて起つた」という状況設定や、「晝間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて高い鴟尾のまはりを啼きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒けであかくなる時には、それが胡麻をまいたやうにはつきり見えた。」という時間的にも視点的にも逸脱する描写が、閉じた円環のイメージを形作っているところなども、「仙人」で触れられていた「運命」というか諦観というか、そのような主題を「羅生門」一篇に与えているように見える。

作品を先に読み進めていくと、下人が羅生門の梯子を上り詰めて行く間にあっては、「濁つた、黄いろい光が」「揺れながら映つた」とか「ぼんやりした火の光をうけて」などというように、「光」があるにしても、それは「ぼんやり」としたイメージを「羅生門」の下から引き継いでいた。それが変化するのは、「この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上り出してゐたのである。」という、まさに「悪を憎む心」が生じ行動に至らんとする場面においてであった。

 

この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる悪であつた

 

という箇所については、「老婆への憎悪は、羅生門の楼上の陰惨な雰囲気から醸成されたものに過ぎない」と、英文評を踏まえて「雰囲気」と結びつける解釈が示されていて、なるほどと思わされるのだが、一方で、ではなぜそれが、老婆に対する激しい憎悪ではなく、あらゆる悪に対する反感と言い直されるのかという点は、いまだ不明瞭なままに置かれていたように思う。

それについて、初期作品の内で捉え直すという立場から解釈を試みてみるなら、それは「仙人」の李小二が抱いていた無意識的な憎しみに通じるもののように見える。これに加えて、原典では髪を抜く老婆の姿が「死人の髪をかなぐり抜き取る也けり」と言われており、それが芥川の「羅生門」では「長い髮の毛を一本づゝ拔きはじめた。」「一本ずゝ抜けるのに従つて」などと、無数に反復されるものとして描き替えられている点に着目してみたい

「羅生門」という小説は、あるいはその作品世界は、「この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災がつゞいて起つた」という災いの反復によって特徴づけられており、また、象徴的な場面と見るべき「晝間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて高い鴟尾のまはりを啼きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒けであかくなる時には、それが胡麻をまいたやうにはつきり見えた。」というのも、ぐるぐると回り続ける鴉らの姿を描き出していた。それらは運命なるものを、下人に諦観を抱かせるものを暗示している。ギリシャ神話などでは運命は糸を紡ぎ断ち切る女神としてイメージされているけれども、長い髪を一本一本抜き取っていく老婆の形象には、それに通じる象徴性が附与されていたのではないだろうか。

 老婆に対する激しい憎悪ではなく、あらゆる悪に対する反感と言い直されるのは、「羅生門」の下においては仕方がないという諦観において抑圧されていた無意識的な憎しみ、生きていく為には盗人にならざるを得ないといったような、あまりにも不正な悪とも呼ぶべき世界・運命に対する憎悪を指し示すものであったためではないだろうか。だからこそ、それを「自分の意志に支配されて」いると見た時、その憎悪の心は冷め、また老婆が至って平凡な、つまりは、運命その物などではないという当たり前なことを示された時、先の憎悪が心の中に入ってくるのではないか。

ここでも先の場面でも、憎悪は老婆に対するものとされていない点は注目に値するはずである。そしてまた、この憎悪が消え去ったとは、本文はどこにも語っていないというのもあまりこれまで注目されなかったところである。

老婆に対する「冷やかな侮蔑」は「冷然とした」態度に引き継がれているが、それとともに、この老婆に対するのではない「運命」なるものに対する憎悪が、老婆を押し倒した時と同様に、しかし方向を違えて、下人に「勇気」を齎している、そんなふうに考えてみると、最後の下人の追剥行為の意味も見えてくるように思われる。 

老婆の論理ないし弁明と呼ばれているものは、清水康次が指摘したように、まず「自分の行為を悪と認めた上で」続いて「自分の行為もまた悪ではない」と主張するというものだった。そこで老婆は、自らを「許される」ものとして語っている(「「羅生門」試論」『女子大文芸』1980・3)。

しかしながら、笹渕友一が指摘していたように、「羅生門」には「与える」「許す」主体は存在しない。下人は老婆からその衣服を奪って持ち去るわけだが、初稿・初収ともにそのまま京の町に強盗を働きに急ぎつつあった、というのであるから、その衣服自体の金銭的価値などというものはそもそも考慮されていない。また、羅生門の上の屍骸の中には服を着たものもあるということが書き込まれてもいた(笹渕友一「「羅生門」新釈」『山梨英和短期大学創立十五周年記念国文学論集』1981・10)。

そういったことから、明るい羅生門系列の論考では、ここに「懲罰行為」といった意味付けを与えてきた。反・明るい羅生門論では、この部分も「抜き難いサンチマンタリスムの故にこそ、優越感に浸りながら老婆の言葉を解釈して、着物を剥ぐ勇気を獲得する」というように、英文評5・サンチマンタリスムの視点から読み取り、「懲罰行為」という視点も取り落とされているけれど、その懲罰の是非はともかくとして、老婆に対する批判が冷然と、感情的にというよりも、論理の矛盾を突くような形で、まさに理智的に示されていることを、無視すべきではなかったように思われる。

老婆の弁明にあるのは、先の「さまよへる猶太人」の言葉を用いれば、「罪を罪と知るもの」であることからの逃避であって、小説「猿」に顕れて居たような、自らの罪を罪と思うような内面性、その尊さの放棄であると、そんなふうに読めるのではないか。とすれば、「猿」のようと見られていた老婆から衣服を剥ぎとるという行為には、「罪を罪と知るもの」の貴むべき内面性を、「仕方がない」「自分は許されている」として放棄しようとするなら、それは「人間」性の喪失であって「猿」動物に等しいといった懲罰的な意味が込められていたのかも知れない。

 

「羅生門」におけるエゴイズムの主題

こんなふうに読んでくると、先に触れた「エゴイズムをジャスティファイするものに変えるという、初期書簡の一節などとも繋げていけるのではないか。初期の芥川は、武者小路実篤の「雑感」等で示された思想に影響を受けていた。それは自分を生長させたい、力強く向上させたいという理想主義的な側面を持つものであったが、一方で、自己を伸ばすということが、時に、他者と対立してしまうことを語るものでもあった。武者小路の「自我を抑えつけようとするもの」という雑感では、彼の母のこんな言葉が語られている。「お前は私がそんなことをしてくれると死ぬといって脅したら、そんなら死んでくださいというに違いない」と。実際自分もそう思う。

このようなエゴイズムの態度を、恋を家族の反対によってあきらめざるを得なかった、それもおそらく、自身が養子であるという立場からの仕方のなさなども感じながら、諦観に至ったのであろう若き芥川は、羨望を以て眺めたろうと思わずにはいられない。 

そんな武者小路は、「個人主義の道徳」という文章で武者はこんなふうに語っている。

 

自分は自分を一個の人間として尊重するやうに他人をも亦一個の人間として尊重する。自分は他人の犠牲になる事を欲しない。同時に他人を自分の犠牲にしようとも思はない。

自分は自分の行為の責任を自分一人で荷ふ、他人に荷つてもらはうとは思はない(略)

自分は自分の行為に責任がもてない人は独立の出来ない人だと思つてゐる、さう云ふ人間は奴隷あつかひしていゝと思つてゐる、そんな奴の犠牲になることは死んでもいやだ。

武者小路実篤「白樺時代の感想」

(『武者小路実篤全集 第二十三巻』195611、新潮社)

 

この武者の発言が倫理的にどうかというのは措いて、ここには、自分の行為に責任を持たないものへの、かなり強い痛罵が認められるであろう。松澤論文で言及されていた「明日の道徳」という、後年のテキスト、講演録なのだが、それを見てみると、大学生のころの自分が、如何に「個人主義の道徳」というものに突き動かされていたか、吾というものを尊重したかということが語られている。

翻って、作品の方を見てみると、「羅生門」の老婆は、自己のために死体の髪を抜くという行為を行っていた。これについて、誰も傷つけていないから別にいいではないかとか、下人の盗み、強盗と違って、鬘をつくるという労働が含まれる点が評価できるとか、そういったことをいう先行研究もあり、それ自体は興味深いのだが、ただとにかく、老婆の言葉を聞いてみれば、彼女はまずこの行為を「悪い事」として自覚していたはずだ。

彼女はそれを、仕方ない事、また許されること、と見做すことによって、自己の行為に対する責任ということを放棄してしまっている。それに対する批判として、あの下人の追剥行為が、描かれていたのではないだろうか。近年の「羅生門」研究が拭い去ってしまっていた、エゴイズムをめぐる思索の跡を、「羅生門」におけるこの下人の老婆に対する批判性の裡に、見出すことができるのではないか。

つまり、醜いエゴイズムを見据えながら、それに諦めきるのではなく、仕方がないとするのではなく、自らの行為に責任を負わねばならない。罪の意識を受けとめなくてはならない。僕はこんなメッセージを「羅生門」から受け取るのである。

 

このような「羅生門」の読みが良いものか悪いものかは別として、ひとつの作品に描かれていることが、外の作品とも緊密に結び合う、単独で作品を読むのとは違う広がりが、複数の作品を見回すことで浮かび上がってきて、そこから考えを進めることができる――そういったところにある発見・気づきの面白さが、少しでも伝われば良いと思う。

 

 

 

 

inserted by FC2 system